22. 明智光秀~光秀の子孫が書いた明智憲三郎著『本能寺の変 431年目の真実』を読んで~前編 共感と同情

あじさい2019その他

みなさん、こんにちは~。
お元気ですか~。
木彫り屋店長 まさまるです。

今回は、どうしても書いておきたかった最近びっくりしたことです。

歴史に詳しい人は、これを読んで”今さら何を。そんなことは当たり前で知っとるわい!”と言うでしょう。そういう方はこの記事を飛ばしてくださいね。

学校の歴史教科書のレベルの知識をもつ人で、また戦国時代や織田信長豊臣秀吉徳川家康が好きな方は、ぜひ一読を!

自分は、教科書の知識しかなかったものですから、驚愕しました!

(自分の)専門外のことなので、まとめきれていない所もあると思います。なので、これをお読みいただいた後、じかに本をとっていただいて読んでみてくださいね。

それでは、リラックスして気楽にお読みくださいね~!

結論は、明智光秀は、恨み・つらみで謀反を起こしたのではなーい!

目次

NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』を見て(終盤しか見ませんでしたが)

あまりテレビを見るほうではないので、今回の『麒麟がくる』の大河ドラマも最初から中盤まで見逃していました。2021年を迎えた頃から録画して見るようになりました。大河ドラマを楽しみにして見るなんて、34年ぶりかもしれません(すみません、NHKさん)。渡辺謙さん主演の『独眼竜政宗』。夢中で見てた記憶があります。ほんとそれ以来。

『麒麟がくる』では、主演の明智光秀役の長谷川博巳さんもかっこよかった(誠実さが伝わってきますね)のですが、何といっても染谷将太さんが演じた織田信長の雰囲気に飲まれました。怪演と正常を行ったり来たり。

そこで感じたのが、織田信長と明智光秀の信頼関係です。
信長~て、なんだかんだいっても光秀を頼りにしてるじゃん!
光秀も信長のことを友達とまでも言わないまでも、仲いいじゃーん!

今回の『麒麟がくる』の大河で、これまでの信長像、光秀像が少し崩れてきました。
なんでだろう。
やっぱ、二人の友情のような何かを、信長・光秀に感じたからか?
今までのイメージは、信長は絶対王者、光秀は絶対服従の臣下。信長がAといったらA、BといったらB。例外なんぞなーい!

二人の友情といっても、まぁでも信長の権力は強かったみたいですね。しかし、信長の光秀に対する信頼度は、家臣の中では群を抜いてあったのかもしれませんね。

大河ドラマをみて、長谷川さんと染谷さんだったからもしれませんが、二人(光秀と信長)の関係が何だか新鮮に思えました。光秀・信長のイメージが少し変わりました。

明智光秀の子孫 明智憲三郎さん著『本能寺の変 431年目の真実』

ずいぶん前にこの本を購入していていたのですが、ちょこっと読んだだけで、本棚にしまっていました。大河ドラマを見終えて、ふと本棚を見ると、燦然とこの本が輝いていました。「読め!」とばかりに。おおげさですね。呼ばれたのですかね。すぐ手にとって読み始めました。

正直、書かれている内容にびっくりしました。

びっくりの内容は、後述しますが、光秀・信長・秀吉・家康の見方がひっくり返りました。自分は歴史研究者ではないので、あれこれと批評などできませんが、純粋に”光秀、いい人じゃ~ん!”って印象がバク上がり!

自分の中では、怨み・つらみからの謀反(私利私欲の謀反)の罪人光秀から、天下国家を熟慮する自己犠牲をも厭わない天下の義人・光秀に変わりました。(上毛カルタで天下の義人モザエモンってあったけど何をした人なんだろう?)

あとこの『本能寺の変 431年目の真実』では、軍記物(例えば江戸時代の小説など)をいっさい無視?しています。
公家や僧侶の日記などを丹念に調べています。それに加え、当時日本に入ってきていた宣教師など外国人(主にイエズス会など)の報告や日記などを資料に使っています。

探偵のように推理していきます。

江戸時代に書かれた物語では、尾ひれがついて、事実よりも大げさになります。読み手を満足させるために誇張します。

お涙ちょーだい状態

中国の『三国志演義』などの歴史小説などもそうですよね。歴史の事実よりおもしろくなるように”盛ります。

長い間の光秀のイメージは、江戸時代に書かれた小説によるものでした。言わば、逆臣・裏切り者のイメージ。クライマックスは、本能寺の変。それに向かっての信長の虐待とそれに耐え忍び、唇を噛む光秀。復讐と憎悪。私怨。そんなイメージばかりの光秀が擦り込まれてしまいました。かわいそうになりました。同情。

今回の『本能寺の変 431年目の真実』では、苦渋の決断・未来への希望を光秀の行動から読みとれます。

決して私怨などではなく、未来への希望につながる統治をめざして、光秀は苦渋の決断(謀反)をしたのです。

織田信長の政策であまり知られていないこととは?

残虐非道・冷酷。自分が幼かった頃の信長のイメージです。

有名な延暦寺の焼き討ち。
幼い自分は、善人のお坊さんを殺しちゃうなんて、残酷極まりない、悪人だ、と信長のことを思っていました。

ところが、年月が経つと「当時のお坊さんは、今のお坊さんと違って武器を持っていて(僧兵)、統治者ももてあますくらい権力をもっていたんだよー」、
「不良僧侶が人々を苦しめていたんだよー」、
「絶対的な既得権者」、などと(僧侶)評価が変わっていきました。

信長の評価もそれにつれて変わっていきました。

住民を苦しめていた既得権者のお坊さんなどから「楽市楽座」などの政策で既得権を取り上げて、町を発展させたりしました。この辺は教科書に書いてありますよね。

まさに改革者・信長です。

裏切り者を許さない、残虐に死に至らしめる、これも平清盛などの失敗から学んだことだとされています。

改革者・信長で、注目すべきことは、海外の宣教師(主にイエズス会)に対して、寛大だったことだそうです。信長自身も黒人の家臣(正確には小姓)弥助を召しかかえていたという記録が残っています。身長188cmくらいだったそうです。

海外から来日した宣教師から、海外の情報や文物を信長は、興味深く聞き入ったり、見たり、もらったりしていたようです。積極的に海外の情報などを手に入れていたそうです。
新しいもの好きの信長のエピソードとしてよくこれは取り上げられています。

このつながりで、私がホントびっくりしたことが述べられています。
なぜ信長は、宣教師を保護し、海外の情報を宣教師から興味深く聞き出していたのか?

唐入りを考えてのことだったのです!

唐入り、すなわち中国進出・侵略です。
教科書レベルの自分には、とても衝撃的でした。

みなさんは、知ってました?

唐入り(中国侵略)と聞くと、豊臣秀吉って思いますよね。それが、なんと!織田信長がすでに考え実行しようとしていたなんて!

信長は、情報をとても重視していたという話しがたくさんあります。今川義元を破った「桶狭間の戦い」も、情報戦ですでに勝っていたという説もあるくらいです。

作者の明智憲三郎さんは、この信長の”唐入り”が、明智光秀の謀反の大きな理由の1つに上げています。 

信長の構想では、天皇家までもが、中国を侵略した後、中国を治める天子として海外に移すことを考えていたようです。びっくりですよね。織田家を脅かすような有力な武将たちも海外(主に中国)に移動!なんて。

だから信長は、海外の情報を得るために宣教師を保護していたらしいのです。少なくとも理由の1つです。

武家社会では、「御恩と奉公」。鎌倉時代から続くシステム。活躍したものに”土地を与える”。しかし、土地は、有限です。それを信長は、中国に求めたというのです!

信長らしいっていえばそのとおりで、他の武将をよせつけないくらい最先端を突っ走っていますよね。ずば抜けている。

“家”、”一族”の繁栄を何よりも重視した社会。現代では、個人が重視される傾向ですが、昔の日本は、やっぱり”家”、”一族”が大事。

その信長の考え方に、他の武将は着いていけたのか?

着いていけなかった結果が、「本能寺の変」!

本能寺の変が起こった理由の1つとして、作者の明智憲三郎さんは、”唐入り”を上げています。

先祖代々受け継いできた土地を離れて、中国に飛ばされるなんて、当時の武将は、想像もできなかったことでしょう。現代のようにインターネットなどで情報が簡単に手に入るならまだしも、その当時、ほんと未知な土地に移転させられることは、罪人の島流しのように感じたかもしれませんね。

信長も革新的で進歩的とはいえ、やっぱり織田家の隆盛を望んでいたことでしょう。有力武将を海外に移動すれば、織田家を脅かすものが少なくなり、織田政権が末永く続くことでしょう。

明智光秀は、他の武将や武士らの心の声を、謀反という形で、あらわしたのです

心の声とは、「海外(中国)なんて行きたかねーよ!」です。

ただの旅行ではないのです。生死をかけて戦って奪わなければならないのです。気が遠くなりますよね~。もうそろそろ日本国内の戦いは終わりそうなのに~。

「本能寺の変」の要因は、いろいろありますが、この信長の”唐入り”も原因のひとつだ、と作者は推理します。

・織田信長が、海外の宣教師を保護した理由の1つとして、“唐入り”(中国攻め)を視野に入れていた。海外の情報を正確につかむため。
・明智光秀は、他の武将の「内なる声」を行動にうつした=本能寺の変。(理由の1つ)。
・「内なる声」とは、”中国なんて攻めたくねーよ~!”、”早く(国内の)戦い終えて安心してーよ~”。

「本能寺の変」の理由は、さまざま考えられますが、この織田信長の”唐入り”(中国攻め)は、大きな要素になっているようです。

“唐入り”=豊臣秀吉と思われますが、すでに織田信長=”唐入り”だったのですね。ここは、ほんとびっくりしました。

次回もまた、私がびっくりしたこと中心に、明智光秀の謀反の理由を『本能寺の変 431年目の真実』(著・明智憲三郎)から教えていただいたことを紹介します!

ぜひ、本を手にとって読んでみてくださいね!

最後まで、お付き合いしていただきまして、ありがとうございました!

お元気で!

明智光秀~光秀の子孫が書いた明智憲三郎著『本能寺の変 431年目の真実』を読んで~後編 未来への展望

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