23. 明智光秀~光秀の子孫が書いた明智憲三郎著『本能寺の変 431年目の真実』を読んで~後編 未来への展望

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みなさん、こんにちは~。
ごきげんいかかがですか~。
木彫り屋店長 まさまるです。

今回も引き続き、最近びっくりした事という話題で、「明智光秀」をとりあげていきたいと思います。

『本能寺の変 431年目の真実』(著・明智憲三郎)を読んで、明智光秀について、教科書で習うくらいの知識しかなかった自分が驚いたことを書いています。すでにこの著書をお読みの人は、復習・確認をかねて軽く読んでみてくださいね。

また、自分は歴史の研究者ではありませんので、この著書についての他の専門家の評価なども読んでいません。異論・反論あると思いますが、あくまでこの著書を読んでの私個人の感想文くらいの感覚で書いています。純粋にびっくりしたことです。

へぇ~、知らなかった。(本能寺の変について)このような解釈をしている人がいるんだぁ~。おもしろいなぁ~」。

それでは早速いきたいと思います。ぜんぜん難しくないですので、リラックスして気楽に読んでくださいね!

目次

前編のおさらい

前編では、明智光秀は、怨み・つらみで謀反を起こしたのではない!

謀反の要因の1つとして、信長の唐入り”政策(中国進出・侵略)があって、たくさんの有力武将の内なる声(心の声)を、謀反という形で、言わば代表して(謀反を)起こした、というものでした。

“唐入り”は、ほとんどの有力武将にとって、想像を絶した政策ではなかったか?(それだけ織田信長の想像力がすごかった)

武将の内なる声とは、もし”唐入り(中国攻め)”が成功し、(中国の)未開の土地に大名として移動させられても、その苦労たるや!想像できない!(日本国内での領地替えでもその土地の民の信頼を得るのは大変だったらしい)、というものでした。

日本国内が、もう少しで織田信長によって統一されようとしているのに、これが終わってもまだ戦いが続くのかぁ~!

まぁ信長は、土地問題を考えてのことだったのかもしれません。土地問題とは、武士の慣習「御恩と奉公」の問題です。手柄のあった家臣に新たな土地(ご褒美)を与えなければならなかったようです。土地は有限です。それで他国の土地!っとなったのかもしれません。

信長は、イエズス会などの海外からやってくる宣教師に対して寛大でした。黒人の家来(名前は弥助)も雇っていたようです。海外の情報・情勢を貪欲に得ていたようでした。

前編のおさらいで、光秀の謀反の要因の1つは、信長の”唐入り”(中国進出・侵略)政策の阻止。
しかし、“唐入り”に関して、どのくらい大名たちが知っていたか定かではない。もしかしたら、信頼の厚かった光秀など、ごくわずかだけだったかもしれない。

織田信長の政策であまり知られていないこと 2 (『本能寺の変 431年目の真実』から)

なぜ、少人数で本能寺に織田信長は、入ったのであろうか?なぜ油断・隙をみせたのであろうか?著者の明智憲三郎さんは、明確に答えています。

徳川家康を討つため!、であると。

びっくりしました。家康を討つ?味方なのに?どういうこと?仲悪かったっけ?

信長が少人数で本能寺に入ったのは、家康の警戒心をなくすため!こちらは、丸腰ですよ~の演出!安心していらしゃ~い!

家康はじめ家康の重臣らは、信長に招待されて(命令だったのかも)、半月以上前に安土城に入っており、それから京都・大阪の堺を見学していました。信長の嫡子信忠も同伴しての旅でした(信忠は途中で京都に帰る)。最終的に、ゴールは、本能寺だったようです。

信長は、ご自身の珍しく・貴重な茶道具などもたくさんそろえて、家康一行を本能寺で待っていたのです。

そしてまさに、家康やその家康の重臣が本能寺に入る直前(6月2日の未明に)、本能寺の変が起こったのです。6月2日、堺から本能寺へと家康一行は向かう途中の出来事でした。

ところで、なぜ信長は、家康を討とうとしていたのか?

信長と家康は長い間、同盟を結んでいました。桶狭間の戦いの後、同盟が結ばれました。その頃は、信長の周りは、武田氏や北条氏、今川義元亡き後の今川氏、上杉氏など強敵に囲まれていました。その時は、この同盟はとても有効機能していたのですが、武田氏が完全に滅亡したくらいから徐々にその同盟の意味が失われていったようです。

だからと言って、すぐに、”次は家康を滅ぼせぇ~”とはならなかったにしても、いろいろささいな事件などが起こったりしていて、関係が怪しくなってきていたみたいです。

しかも、織田家と徳川家は歴史的には両家の祖父の代からあまりよい関係ではなかったらしいですね。

大きな行動で、信長が家康にプレッシャーをかけたのが、甲斐の武田氏滅亡の戦後処理の時でした。戦後処理を終えたその帰り道、信長は、「富士山見物」と称して家康領を軍事視察したのでした。約一週間くらい。家康のメインの領地をゆっくり通っていきました。もちろん、光秀も同行していました。家康の気持ちはどのようなものであったでしょうか!

豊臣家が滅びたのは、秀吉が家康を討たなかったから、とよくいわれますが、信長も織田家の繁栄のためには、家康を滅ぼさなければ、と考えていたようです。”頭脳明晰”と宣教師たちに認められるほどの信長ですからね。ほんとありえます。

信長は、微妙な関係になりつつあった徳川家康を本能寺におびきだして、明智光秀に討たせようとしていた!
だから、警戒させないように、少人数で本能寺に入っていた
信長は、将来的に織田家繁栄のため、家康を排除しておかねばならないと感じていた

明智光秀と徳川家康の作戦

信長は、本能寺で家康を討とうとして逆に、光秀の謀反で滅びました。信頼していた光秀と一緒に「家康討ち」の作戦を練って、いざ実行しようという前に信長自身が討たれてしまいました。

『本能寺の変 431年目の真実』は、ほんと衝撃的なことが書いてありますね。みなさんもぜひ熟読してみてくださいね。

「家康討ち」の計画を信頼できる光秀と練っていた信長。信長の最後の有名なセリフ。

「是非に及ばず」。普通に言い換えると「仕方ない」です。なんか諦めの言葉のようですね。しかし、著者の明智憲三郎さんは、こう解釈しています。

ここでの信長の「是非に及ばず」は、あきらめの言葉などではない。信長が、「これは謀反なのか、誰の企てか」と問い、森乱丸が「明智の手の者らしい」と聞いて、自分と一緒に本能寺での家康討ちを計画した「光秀の謀反」と確信する。

だから「さらに確認する必要はない。(是非に及ばず)」と指示を与えた、と解釈しています。

信長と一緒に家康討ちを密かに企てていたのは、光秀しかいないからですね。

光秀は、家康討ちを逆手にとって、信長を滅ぼした。ただそれだけだと、お後が大変ですよね。それで家康と同盟を結んで、信長の死後のことを対処しようとした。

家康は、光秀から本能寺で自分自身が討たれる計画を聞いてどう思ったでしょうね?少し前に家康は、信長らに自分の領土を軍事視察されて、”やば”ってうすうす感じていたでしょうね。

本では、(光秀が)信長を討った後、家康は手配していたように無事に自国に戻り、甲斐などの織田軍と戦い、早めに相手を屈服させ、光秀を救援にまわろうとしたが、秀吉の動きが想像以上に早く(中国大返し)、光秀が討たれ、助けることができなかった。

家康と光秀は、安土城で密会し、謀反後のことも作戦を練っていたらしいです。しかし、本能寺の変で信長を滅ぼすところまでは、予定通りだったのらしいですが、その後は、歯車が狂いだしてしまったみたいです。

一番の誤算は、よく言われているように、秀吉の俊敏な行動だったようです。世に言う「中国大返し」ですね。秀吉の情報収集能力は抜群で、家康一行の旅のお供にスパイを忍び込ませていたらしいですね。秀吉のことは、またいつか書きたいと思っています。

光秀と家康は、(堺見学する前の)安土城で密会し、同盟を結んだ。本能寺の変の後のことも話し合っていた。しかし、秀吉の中国大返しなどの俊敏な行動で歯車が狂い、光秀は討たれてしまった。家康は、光秀を救えなかった。

最後に、徳川家康が、命を救ってもらった光秀に報いるような人事をしています。

春日局(かすがのつぼね)のことです。名前は、斉藤福。明智光秀の重臣だった斉藤利三(さいとうとしみつ)の娘です。徳川3代将軍の家光の乳母。

「本能寺の変」は、その実行部隊は、斉藤利三らが中心だったようです。その斉藤利三の娘が、家康からみて孫になる家光の乳母を任されていたのです。普通なら、謀反人明智光秀の重臣(利三)の娘を採用しないですよね。しかも、利三は実行部隊です。謀反人として、光秀とともに処刑後さらされました

実際、うわさでは、斉藤福(春日局)は、家忠(2代将軍)の妻だったというのもあります。

家康は、光秀・利三コンビに感謝していたんでしょうかね?

戦国時代は、ホント複雑すぎますね。名前も難しいですし、なかなか当時の価値観を知ることも難しいです。

前編でも述べましたが、「明智光秀」に関しては、江戸時代に書かれた小説などの影響が大きすぎるのかなぁ~。自分も固定観念にとらわれていました。だからといって、資料なども権力者の有利なように改竄されることもあり、著者の明智憲三郎さんも書いていたように、探偵のように推理するしかないですよね。(今回は、光秀の謀反の理由をしぼって紹介しましたが、まだまだいろんな理由がありますよ~)

そこが歴史研究の醍醐味なのかもしれませんね!

今回、”最近自分がびっくりしたこと・おもしろいこと”として、長々、明智光秀に関して書いてきました。ほんと楽しかったです!でも歴史資料を読むって大変な仕事ですね。歴史学者さん、すごいですね!著者の明智憲三郎さん、おもしろい本をありがとうございました!

最後まで、みなさん、お付き合いしていただきまして、ありがとうございました!

お元気で!

・明智光秀~光秀の子孫が書いた明智憲三郎著『本能寺の変 431年目の真実』を読んで~前編 共感と同情

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